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※ネタバレします※
前代未聞の作品+主演女優2名パルムドール受賞と、約7分間にも及ぶセックスシーンで話題になっている映画『アデル、ブルーは熱い色』をみてきました。鑑賞を終えての心のなかの第一声は、この映画へ公式コメントもされている東小雪さんと宇野亜喜良さんのおふたりが的確に言葉にしてくださっているので以下公式より引用。
男と女という異性、
そして女と女もやはり異性であり、
そこには愛の事件もあることを、
この映画は美しく実証する。
宇野亜喜良さん(イラストレーター)
「レズビアンのセックスが長々と描写される」ということで一部メディアではセンセーショナルに宣伝されているが、この映画は所謂”同性愛”を語るための映画ではなく、純粋に”愛”を語る映画であり、ジェンダーフリーの観点から語るだけ野暮というもの。どうやら原作のコミックでは主人公が同性愛者であることへの葛藤を映画作品よりも丹念に描いているようだが、映画版アデルは両親や同僚、同級生には隠しているものの比較的そのこと自体には悩んでいないようにも思える。そんなことよりも「彼女たちが狂おしい程に求め合い、相手の心が離れていく不安を感じ、嫉妬をし、別れてしまうこと、それでも尚相手を求めてしまうこと」それがこれほど豊かに描かれている点、そこにこそ、わたしはこの作品の意義を感じた。アデルの食べ方、日焼けして火照りはじめている頬と、常に半開きの口。泣いたとき涙よりも先に鼻水が垂れるところ。願掛けのように青い服を着てエマに会いにゆく姿。エマの白い肌に映える青い瞳と髪。愛おしい者への想いを結晶化させたような眼差し。笑うとみえる前歯のスキッ歯。両親と面会した際のぎこちない会話と、エマの友人に囲まれてスパゲッティをひたすら盛り付けつづけるアデルのいたいけさ。相手を求めすぎるがあまり、久しぶりに再会したとき口にしてしまったタチの悪い冗談。波に身体をまかせたアデルを満たしていく海水の輝き。自由に揺れる髪、、、とまぁ、思い出すとこの作品には終始一貫して、ひとつの調和を感じて、それは音楽のようでもあるし詩のようでもある。
自分で野暮といったばかりだけれど、ひとつだけこの「約7分間の女性同士のラブシーン」について書きたいことがあって、それは「7分間の性交シーンを映画作品に取り入れ、鑑賞に耐えるどころか多くのひとを魅せるものにできたのは、これが女性同士のものだったからなんじゃないか」ということ。異性愛が“ノーマル”なものとされ、異性愛者の男性向けポルノでは出来るだけ男優の存在を消し、消費者が“まるで自分が女優としているかのように”没入できる作品のニーズが高いような現代社会では、異性愛のセックスや男性同士のセックスという形態をとったのでは大衆に対して「7分間みせるもの」として作り上げるのは困難だったのではないか。だからたまたまこの映画は「同性愛」という形態をとったにすぎないけれど、それは必然でもあったのだ。
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ミュージックトラックも最高!鑑賞以来、Lykke LiとSky Ferreiraしか聴いていないです。後者は劇中流れたりしないけれど、アデルの諦め感と無防備さ、切実さがSky Ferreiraのそれとシンクロするのです。
“真実の愛”を巡る旅その2ー『アナと雪の女王』
ディズニーのプリンセス映画は『美女と野獣』以降、「美しい女性が王子にみそめられて、危機から救ってもらいゴールイン!めでたしめでたし」という「お嫁さん街道まっしぐら」から外れた姫像が主流であるけれど、その度に新しいジェンダー観や主題を打ち出してくるからやっぱりディズニープリンセスものは最高!子供も大人も手に汗にぎって、口をぽかんとあけたり、むうと唸ったり、けらけら笑ったりしたあと最後にじーんとして、さらに映画館をでたら「これはあの象徴かもうんぬん」と得意げに話したりできる。この映画も、ちまたでは「同性愛を隠喩している」とか言われているし、確かに思い当たる節もあるし、そういう観点からみるのも十分面白いと思うのだけれど、それだけじゃないよなーなんて思う。
公開当時「母の束縛から自立する娘の話」と評された、前作『塔の上のラプンツェル』の主人公ラプンツェルには「癒しと若返り」という特別な能力があった。わたしはこの作品もとても楽しんで観たのだけれど、なんとなく物語の終わり方に納得できなかったのを覚えている。「元盗人とはいえ姫は愛するひとと結婚し、王国にも戻れて幸せです!結婚相手のステータスとか関係ないよねー」というハッピーエンディングが嫌だったわけではなくて、「特殊能力の源であるラプンツェルの髪の毛が恋人の手によって切られてしまう」というのが「多くのひとを救うことができる能力を恋人によって奪われ、彼のためにのみ使われる」ともとれてしまうんじゃないかと思ったのだった。それでも結婚して幸せ満々って!ラプンツェル!と。その点、この『アナと雪の女王』のエルサは最後まで魔法の力を失わない。それが時に人に怖れを与えるものであっても。アナは姉エルサの魔法の力を知る前も知ったあとも彼女の心のドアをノックしつづける。エルサが「触れないで、あなたを傷つけるから」と言ってそのドアを閉ざし続けていてもだ。アナを想うからこそ離れていようとするエルサとエルサを想うからこそ寄り添おうとするアナの姿に、観客は引き裂かれそうになる。そしてラスト、ありのままのエルサを思うアナに彼女は救われ、彼女もまたアナを救う。ここでまた前回の記事で引用した文章を載せたい。
「愛する」ということは「相手を認める」ことです。つまり相手が存在していることを、心から「いい」と受け止めることです。あなた自身の損得勘定とは関係なしに。ただ、それだけです。
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同時上映の短編アニメ『ミッキーのミニー救出大作戦』も、”モノクロアニメの世界”と”それを上映している劇場”という虚構と現実をミッキーたちが行ったり来たりするメタフィクションで、話の筋としてはシンプルだけれど、良い作品だったと思う。同じディズニー映画で「虚構と現実を行ったり来たり」だと2007年公開の『魔法にかけられて』が思い出されるが、あの映画もアニメーションで”あっち(=おとぎ話)の世界”を、実写で”こっち(=現実)の世界”を描き分けていて斬新だったし、過去のディズニープリンセスオマージュはふんだんに取り込まれているし、物語としても「女性の生き方の多様性とその選択」が描かれていて素晴らしい作品だったと思う。
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“真実の愛”を巡る旅その1ー『ドン・ジョン』
愛、愛、愛、これほど人間が古今東西求め続けているものってあるだろうか?「真実の愛」なんて散々語り尽くされているはずなのに。AV監督の二村ヒトシさんが著作『すべてはモテるためである』を出して本当にモテるようになってから、女性への「加害者意識をつのらせて書いた」*1という『恋とセックスで幸せになる方法』にはこんなことが書いてある。
「愛する」ということは「相手を認める」ことです。つまり相手が存在していることを、心から「いい」と受け止めることです。あなた自身の損得勘定とは関係なしに。ただ、それだけです。
「男と女、『愛と理想のセックスのあり方』は根本的に違います。この作品で女性はもう少し男性が本当に求めるものを理解できるかもしれません。」叶姉妹のお姉様は映画『ドン・ジョン』の推薦コメントにそう書いている。でもわたし、理解できなかった。『ドン・ジョン』観ても、男と女が本当に求めているものは違うなんて、理解できなかった。この映画が伝えたかったのはむしろ、その反対で「男と女が愛とセックスに求めていることは根本的には同じ」ということなのではないかと、そう思った。自分の理想を相手に求めたり押し付けたりするのではなく、ありのままの相手を受け止める。見つめ合い、相手に埋没する。それが男や女という性別とか、性癖とか、性的マイノリティだとか、年齢だとか、人種、なんてもの関係なく人間が求めている「真実の愛」なんじゃないかと。掃除するのが好きでこだわりがあるっていうんならさぁ、掃除させてあげればいいじゃん!ポルノがすきでやめられないっていうならさぁ、頭ごなしにキレるんじゃなくて、どうしたらいいか話し合って一緒に考えてあげればいいじゃん!それが「愛」じゃん?だからさぁ、あなたも在りもしない「めくるめくセックス」なんてもの追いかけて相手の身体使って自慰してないで、そのひとの存在を慈しめよ!そしたら「真実の愛」感じられるから!っておそらく良いセックスしているであろうジョセフ・ゴードン=レヴィットは言っているんだと思うよ。
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芽キャベツの憂鬱
「自分が口にしている食材がどのような形で自然界に存在しているかを、現代人はあまりに知らなすぎる」「酷い例だと切り身のまま泳いでいる魚がいると思っている子供さえいる」なんてことを、かつて某新聞紙で読んだことがある。数々の寿司ネタが海を泳いでいるところを想像したりすると、そのまま回転寿司のイメージがでてきて楽しかったりするし、別にその食材がどんな形の種子からどんなふうに成長してどんな花をつけるのか、食べているのはそもそも葉なのか茎なのか根なのか知らないと食事にありつけないというわけでもない。でも「わたし知ってます!ジャガイモのことを!成分はデンプンで、ヨウ素液をたらすと紫色になり、芽は発がん性があるためとったほうがいいらしく、ふかしてバターをつけたりして食すとうまいということを!」なんて言っているくせに、「ではその『ふかしてバターをつけるとうまい』のは具体的にいうとジャガイモのどの部分なんですかね?」と問われると「そ、それは、、茎でしょうか。それとも根かもしれません」と突然答えに窮して恥ずかしい思いをしたりするので、やっぱり「今食べているものの素材の味・形ができるまで」を知っていたほうが、人間、上をむいて生きられる。
そこで初春のホットトピックスとして、鬼の首をとったかのように得意げに飲み会等でネタにできるのは
芽キャベツ!「芽」なんて可愛らしいワードが接頭語としてついているし、見た目もキャベツのミニチュアだし、可愛らしく地面から咲くように生えているのかと思ったらこれです。遠目でみたらでかいパイナップルと見紛うのではないかと思う。あとワサビ。なんとなく最近話題の写真集の被写体にも似ている。芽キャベツにもお面をつけてほしい。
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世界って本当はこうなんだよ!皿の中だけみて世界だと思うな!と芽キャベツに教えられたような気がしたので、この春はナプキンを捨てよ、畑にでよ。
All You Need Is...
マイ・ブラッディ・ヴァレンタインこそはすべて ケヴィン・シールズのサウンドの秘密を追って
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かぐや姫はどこから来て、どこへ還るのかー『かぐや姫の物語』と『ゼロ・グラビティ』
突然ですが、現代の、人類二大未知といえばそれは「死」と「宇宙」なのではないだろうか。子供の頃、布団に入ってから眠るまでに考えた「死んだらどうなるんだろう」と「限りなく続く果てがない、宇宙って一体どういうことなんだろう」という疑問は、当時のわたしを眠らせなくするには十分な議題で、電灯を消した暗い子供部屋で、途方もなく大きな真っ黒の布に取り込まれて取り込まれて、そのまま永遠に独りで泳いでいるかのような気持ちになったものだった。
昨年11月末、映画『かぐや姫の物語』をレイトショーで観に行った。平日で、しかもサービスデーでもなかった日のためか、わたしは大きなスクリーンを前にした広ーいシネコンの客席の真ん中に、ひとりでぽつんと座って鑑賞することとなった。映画はとても良かった。ぽろぽろぽろぽろ泣いた。でも「なにか温かく大きなものに包まれているのに、どこか不安な気持ちでもある」この感じがなんなのか、はっきりわからなかった。はっきりわからないまま、ぽろぽろ泣いた。その「なんなのかわからないけどすごく不思議な感じ」を年が明けたある日、わたしは違う場面で、また味わうことになった。職場の先輩(男性)のところに赤ちゃんが生まれたというニュースがそのきっかけだった。息子が生まれた日の翌日、その先輩は出勤して朝一に、わたしたち同僚に生まれたばかりの赤ちゃんの姿を収めた写真をみせてくれたのだった。その数日前に、別の先輩から最近の妊婦検診事情を聞いていて、今時はエコーなんていう我が子がミジンコのようにしかみえないものだけじゃなくて、立体的にはっきりと(それこそお腹の中にいるときからパパ似かママ似かなんて話にできるくらいはっきりと)みることができるんだということを知ったのだが、その時「なんだかそれって宇宙船に乗って地球に少しづつ向かってきている異星人と、テレビ電話とかで交信してるみたいだなー」なんて思っていたのだった。そして、その日生まれたばかりの赤ちゃんの写真をみて、これは語弊があるようにとられかねないけれど、やっぱりなんだか新生児って異星人みたいだと思ったのだった。この前までお母さんのお腹の中という絶対に会えないところにいたんだけれど、今はこうして世に存在していて、でもまだ言葉もしゃべらないしなにをみているかもわからないし、小さいし、でも見事に精密に器官が揃っていて、すごくかわいい地球人と異星人の狭間の彼。その子の写真をみて「どんな子になるんだろうね」「どんな声でしゃべってどんなふうに笑う子になるんだろうね」「これから大変だけど楽しみだね」なんて周りのみんなは話して、そのみんなの笑顔といつもよりワントーン高い声は、生まれたばかりの彼に「はじめまして、遠くからよくやってきたね。ここは安全でなんの心配もなくいられる場所ってわけじゃないけれど、わたしたちはあなたを歓迎するよ。これから仲間だよ」って受け入れているかのように思えたのだった。そのことがはっきりわかる前の感覚、この喜びに溢れている、ひたすら喜びと驚きに溢れている、けれど論理で理解できるが感情では捉えきれない「新しい生命の誕生」ということの不可思議さ。それを待ち受ける世界の優しさと厳しさ。『かぐや姫の物語』をみたときに感じた「なんなのかわからないけどすごく不思議な感じ」と、完全に一致したのであった。思えばかぐや姫も「天のひと」で、天、それは宇宙で、かぐや姫が天からきて天へ還るように、ひとは宇宙からやってきたように生まれて、生きて、死んだら星になって宇宙にかえるのだ。宇宙は生前と死後の世界みたいなものなのだ。つまり、宇宙へ行くって生きたまま死後の世界にいくようなものよね!それってとても恐ろしいね。ピッカーン!と
話は映画『ゼロ・グラビティ』へと続きます。『ゼロ・グラビティ』は予告で観た際、「これって割と速い段階で空気なくなりそうだけど、それってつまり約90分の劇中70分くらい、ずっと息ができない!息ができない!ってやってるのかなぁ。すごく観てるの苦しそうだなぁ」と思っていたのだが、ここで指摘されてるように息ができないこともそうだが、重力がないのも困るよ!ってか宇宙特有の悩みのタネはそれでしょ!という映画だった。実際には。重力がなければ身体はぷかぷか浮いてるし、筋肉必要ないし楽じゃん!みたいな軽いノリでいたら、気づいたときには文字通り銀河の彼方、みたいなことになるのが宇宙。対して重力のある地球では筋肉がなくちゃ進めないし立てない。身体重くて辛い。前述したように宇宙が生前・死後の世界の象徴だとすると、喜びも悲しみも自立も依存もないのが宇宙。「地球の生活もわたしにとっては無みたいなものだから、安らかに宇宙という死後の世界にわたしも取り込まれます。」というこの映画の主人公も、辛いことがあるとすぐに「死にたい」だの「子宮に還りたい」だの言っている世のアマチャン(わたしも含めて)たちは地球で生きているという身体の重さ、だからこそ感じられるワンダーを、だからこそ自分の思う方向に進めることを、この映画のラストで知るのだ。映画『冷たい熱帯魚』のラストシーンで、主人公・社本が「生きてるっていうのはさ、痛いんだよ!」と絶叫するけれど、ここでサンドラ・ブロックが叫ぶとしたら「生きているっていうのはさ、重いんだよ!」ということだろうか。それにしても、死後の世界の象徴だなんて考えたら、例え物理的に可能になったとしても、わたしは宇宙旅行なんて怖くてとても行けそうにない。それが二大未知のうちひとつの解明に近づくにしても、もうひとつの未知に取り込まれてしまいそうで。