『ブリングリング』


 ついこの間、ひとりでカフェ飯を食しながら、近くに座っていた女子大生ふたりの会話をなんとなく聞いていた。どうやら彼女らは将来つきたい職業について話をしているらしい。
  女子大生A「学校の先生とかいいよねー。ひとに影響与えたいって思う。」
  女子大生B「わかるー!ひとに影響与えられる仕事っていいよね。」
それを聞いてわたしは、うへぇとした。こんなことを言う先生にはあまり教わりたくないなと思った。というのも「ひとに影響を与えるひと」というのは、その思想や行動により結果的にひとに影響を与えているのであって、「わたし、ひとに影響与えたい!」と言って与えているわけではないからだ。しかしソフィア・コッポラの新作映画『ブリングリング』でも、数々のセレブリティの邸宅に侵入し続けていたティーンエイジャー窃盗団のメンバーであるニッキーが、事件発覚後メディアの取材に対して改心したかのように、こんなふうに答える。「わたしは将来指導者になって、ひとに影響を与えたい。」もう、この「指導者」っていうのからして怪しい。「指導者」って一体なんの指導者ですか。



 「セレブの家に潜り込み、装飾品やドレスに靴、鞄、そして札束を盗み出し、その戦利品を身にまとってクラブにくりだして自撮りをする→Facebookにその写真をあげて、ドラッグをやりながら車で帰宅」というサイクルを、捕まるまでループし続けるティーンエイジャーたちが主人公の『ブリングリング』。前作『SOMEWHERE』でイノセントなティーンを描いたソフィア・コッポラが、今度は利己的で短絡的、そして享楽と自己顕示欲に満ちたティーンエイジャーたちを描いている。セレブに対する憧れと嫉妬、蔑みの感情をもつ彼らのライフスタイルは、メディアが報じる一部のセレブリティのゴシップネタのモノマネのようで、パパラッチに追われることのない彼らは、代わりに自撮り写真をFBにアップして自己顕示欲と「自分の存在を目に見える形で確認したい」という願望を満たす。パリス・ヒルトンがやたらと自宅に自分の写真を飾っているのも、リンジー・ローハンがベッドルームに「Lindsay」のネオンを飾っているのも、それと同じで自身の存在確認のためなのではないだろうか。冒頭で記述したニッキーの「ひとに影響を与えたい」発言は、言い換えると「ひとに注目されたい」「ひとびとの憧れの対象になりたい」等というエゴを聞こえよくしたものに過ぎないと、わたしには思える。彼女がそんな風に発言するのは自身の存在確認を他者の視線を通してしかできないからで、でも本人はそんなこと全く気づいてなんかいない。彼女は全く改心なんてしていないし、仮にこの事件が本当に『人生の学びの場』であったとするならば、彼女が学んだのは「リンジーやパリスじゃなくて、アンジェリーナ・ジョリーのモノマネでも注目は集められる。」ということぐらいだろう。そこが彼女の図々しさたる所以だと思うし、たくましさでもあるのだ。



 ゴシップや悪い噂まで逆手に取って、ひとの注目を集める。窃盗して注目されて、セレブの仲間入り!勝利!という『ブリングリング』を観て、改めて感じたのはパリス・ヒルトンの神々しいまでの図太さ。そもそも自身も実際に被害にあった窃盗事件の実話を元にしている作品なうえ、「バレないよ、だってパリスだし」なんて台詞がでてきたり、玄関マットの下に鍵をおいているというバカ演出されているにも関わらず、その映画の撮影に自分の家を貸し出したりカメオ出演したりとどこまでこのひとはたくましいんだ。低俗も極めれば超越したものになるとはこのひとのことを言うのかしらなんて思うのだった。

『ウォールフラワー』

※ネタバレありです※

 「ひととひとが出会うと物語がうまれる」という、よくある当たり前の真実が、わたしはとても好きだ。だからレオス・カラックス監督作の『ボーイ・ミーツ・ガール』は、この世に数多ある映画タイトルのなかでも完璧なもののひとつだと思う。シンプルなのに、物語喚起力がある。けれど実際の人生では、この「よくある当たり前の真実」のほとんどはドラマチックでもロマンチックでもない退屈な物語だ。だからこそ、時々訪れる「人生を変える出会い」ってものに人は焦がれる。原作者スティーブン・シュボースキー自らが監督・脚本をつとめた『ウォールフラワー』は、まさにそんな「ひととひとが出会うと物語がうまれる」ことを描いた映画だ。しかもとびっきりドラマチックに。


 体育会系でもないしオタクでもない、ガリ勉でもなければ不良でもない、つまり自身をカテゴライズする言葉をもたない者たち=“ハミダシ者”のアメリカンハイスクールものの傑作といえば、思い出すのは『ゴーストワールド』や『ローラーガールズダイアリー』だ。高校生の主人公たちは口だけは達者だったりするけれど、総じて自分に自信がなく、親や友達等自身をとりまく環境に不満をもっている。そしてとにかく“クール”なものに憧れている。そんな彼らが歳上のほんもののハミダシ者たちと出会うことで物語は動き出す。『ウォールフラワー』の主人公チャーリーにとって、友達ゼロの高校生活は監獄みたいなものだ。けれどそれも、歳上の変わり者で最高にクールなサムとパトリック、そして国語教師のジムとの出会いで変わってゆく。今まで聴いたことのない音楽、刺激的な会話、数々の古典文学、美しいひとへの片思いと初めての恋人。そして彼は自身の奥深くに眠っている大きなトラウマと向き合うことになる。


 この作品が素晴らしいのは、チャーリー自身の変化と物語だけが描かれているのではないところだと思う。彼がサムやパトリックと出会い変わったように、彼らもチャーリーとの出会いで変わってゆく。自分以外の物語の目撃者になることで、チャーリーはさらに変化してゆく。チャーリーが心寄せるサムが、違う相手に苦しい恋をしているのをみている一方で、チャーリーも彼に心を寄せるメアリーエリザベスを苦しませてしまう。また、パトリックと彼の恋人のむごい離別の一部始終も知る。彼が恩師のジムにたずねる「ひとはどうしてひどい相手を恋人に選ぶのか?」という問いに、ジムは「自分に見合うと思うから。」と答える。チャーリーがサムを“憧れのひと”とみなくなったとき、彼らははじめて恋人として心を通わせることになる。またジムも、チャーリーという教え子と出会うことで人生のひとつの転換を迎えたと言える。かつて脚本家として活躍したこともあるジムは、再びNYでやり直すことを考えているが、文才のあるチャーリーに指導をしているうちに「自分には教えることがむいている」と教員を続けることを決断するのだ。


 『青春の、ある一瞬は永久だ』という、よくある当たり前の真実も、わたしは好きだ。それはとてもドラマチックだから。『ウォールフラワー』のあっさり描かれているけれどじっくり考えるべきモチーフと、彼らの心情を代弁する最高にクールなミュージックトラックと、エズラ・ミラーの麗しさと、エマ・ワトソンの剥きだしの肩。「この映画にすべてがあります!」と叫んで、わたしは師走の街を駆け回りたい。



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そういえば、"This is a story of Boy Meets Girl."のナレーションで始まる『(500)日のサマー』は、主人公の男の子が可愛い女の子に「わたしもスミス大好き!趣味いいね!」と言われて恋に落ちる映画だったけれど、『ウォールフラワー』も主人公が可愛い女の子に『わたしもスミス大好き!趣味いいね!』と全く同じように言われて、やっぱり恋に落ちる映画なのでした!The Smithというのはつまりそういうバンドなのだ。

Requiem for Innocence

Requiem for Innocence

選択することと批評することで自分の力を確信固辞しようとする人間への憎しみはやっぱり消えることはないし、でもその憎しみが消えたらそれはそれで不安だし、自分と同質の人間とだけつきあうことは安心と心の平穏をもたらしまるで世界はとてもシンプルなものに思えてくるけれど決して実際はそうではなく、その現実をまざまざと見せつけられたわたしは今日もビールジョッキを左手にもちながら恨めしげにその恨めしい相手の様子を眺めて自分も批評して自分の力を確信固辞してでもそれに対する憎しみを失くしたくないし言いたいことは言いたいし、とどのつまりは思い煩うことなく生きたいが晴れやかな気持ちでいることへの疑念が生じていつだってわたしは不安でいたいし腸を煮えくり返りかえしたいがためにそのきっかけを探しているにすぎないのかもしれず、それは結局退屈したくないがため。

狂気のゆるきゃらグランプリ2013

 ※わたしの個人的な偏見にみちたゆるキャラ観であることを念頭に読んでくださいね☆※
みうらじゅんさんが名付け親だが、もうすっかりビッグビジネスとなった感のある「ゆるキャラ」。数年前まで全く興味のなかったわたしも、とある、ゆるキャラにまつわる傷害事件(後述)を知ってからというもの、すっかりその一部のキャラたちに愛着をもち、時に心揺さぶられるまでになってしまった。ということで、今年もみなさんお待ちかねのゆるキャラグランプリ2013が開催されています!



ことの始まりは、埼玉県のマスコット・コバトンだった。

「くそださい。どうして県のマスコットに、よりによってこんなに冴えない色の微妙な鳥を選んだのか。これが”ださいたま”たる所以か。可愛くないうえに、まずそう。」コバトンに対するマイ・ファーストインプレッションはざっとこのような感じであった。しかしこのコバトン、実は過去に3度も傷害事件の被害者になっているらしい。残念ながら2004年当時のニュース記事はネット上にほとんど残っていないけれど、なんでも川口駅構内に設置されていた際に羽がもぎとられたり、腹に殴られたようなへこみが発見されたというのだ。それでも微笑むコバトン。それでも飛ぼうとするコバトン。なんていじらしいのかしら。あれほど散々なことを言っていたのに、わたしはその話をきいてからすっかりコバトンのことが好きになってしまい、ひいてはゆるキャラに興味をもつようになった。



数多く存在する、ゆるキャラのタイプをわかりやすく分類するため、ドラえもん登場キャラで例えると「ドラえもん」「ドラミちゃん」「出来杉」「綺麗なジャイアン」「のび太」の5種類、そしてそのどれにも属さない「狂気の無所属」にわけられる。くまモンやバリィさんは、この「ドラえもん」にカテゴライズされる。個性が強く、みんなの人気者。ゆるキャラグランプリで優勝するタイプだ。「ドラミちゃん」はひたすら可愛い系。今年のゆるキャラグランプリにエントリーしているものでは札幌のコアックマ・アックマだとか深谷市ふっかちゃんがそれにあたる。チーバくんせんとくんは「出来杉」。ゆるキャラとしては完成度が高すぎるからだ。「綺麗なジャイアン」は「にしこくん」や「レルヒさん」など、ウケを狙い過ぎているもの。「のび太」はパッとしないもので、ゆるキャラのうち多くはここに所属するが、まれにコバトンのように文脈によっては愛されキャラとなる。そして最後の「狂気の無所属」。わたしが惹かれるのは、一部の「のび太」と、この「狂気の無所属」ゆるキャラたちだ。では「狂気の無所属」ゆるキャラとはどんなものを指すのか。それにはまず「ミョーコーさん」をみてほしい。


これが新潟県妙高市のマスコット、ミョーコーさんである。まず顔のバランスがおかしい。太い味付け海苔のような眉毛に、ゆるキャラでは珍しい横長の目。その下には丸い鼻。なかなかない取り合わせである。着ぐるみになると細身になり顔の具が寄るので、よりおかしい。個人的には2012年のグランプリであった。残念ながら今年は今のところ出馬していないよう。

2013年、注目の筆頭株は、山形県舟形町のめがみちゃん。

どうしてこの胴体に、この頭をつけたのか。左足の歪みかたが、痛々しくさえある。
宮城県栗原市の細倉マインパークのマスコット、マイン坊やもやばい。

瞳孔ひらいてないですか。もう少し黒目がちなら、もっとかわいいんじゃないんですか。あと、その胸にある自信なさげな字体の「H」はなんですか。



ゆるキャラの醍醐味とは、センスのない行政のエライおっさんたちがこれらのマスコットたちを公募し、会議で「ようし、ではこの“うなりくん”でいきましょう」とか言いあい、スーツ姿で着ぐるみと写真におさまったりしているであろうところだと思う。センスのない行政は、ときに思いもかけない歪みを生じさせ、絶妙なアンバランスを備えたゆるキャラが生まれる。それが「狂気の無所属」組なんだと思う。ただ悲しいかな、人間はアンバランスというものにすぐ慣れてしまうようで、去年みつけた時はあまりの興奮でわたしの頬を紅潮させたミョーコーさんも、今ではさほど心を動かされなくなってしまった。今後とも、彼に続く良質な狂気のゆるキャラの出現が絶えないことを願って、群馬県出身のわたしは”ぐんまちゃん”にやっぱり今日も一票いれるのでした。

風たちぬ

「風たちぬ。いざ生きやめも。」
 

 25歳になった。完全に護られて安全だった母の子宮内から、産道を通り、頭・胴・足の順でこのわけのわからない世界に、まぬけな裸としわくちゃな顔で出てきてから、どうやら4半世紀経つらしい。数年前まで、自分の生の時間を”世紀”なんて大それた言葉であらわすことのできる日がくるなんて思ってもいなかった。”世紀”という言葉につながったら、それはもうほぼ歴史で、ただ泣いて不快なこと(おなかがすいた、あつい、おしめがぬれていやだ)を伝えることしかできなかった赤ん坊も、こうやってキーボードを叩いて文章をかけるまでになる。こうして考えるとまるで進歩ばかりが人生のようだけれど、実際はまるでそうではなく、これまでが調子がよかったに過ぎないのだと思う。スタートダッシュはいつまでも続けられない。現に1年前のわたしから、今のわたしはどこがどう進歩しただろうか?具体的なことといえばビールが美味しく飲めるようになったことくらいしか思い浮かばない。あとは悲しいかな、「人間性のあわない人ともなんとかうまくやれるようになった」だとか「考えが広がった」だとか、うすぼんやりした精神論だけだ。

 わたしが社会人になったのは東北地方太平洋沖地震の直後だった。就職先は、震災後の対応に追われていて新人教育どころではなかった。ただでさえ少ない研修期間(5日間)がわたしたちの代はたったの3日間しか与えられなかった。けれどそもそも平常時を知らないので、こんなものなんだろうと思って仕事をした。毎日「いつかやめてやる」と思ったし、仕事中にトイレの個室で泣いたりしたこともあったけれど、「今がいちばんサイアクだからこれ以上わるくなることはない」という救いが当時のわたしにはあった。一方で世間のムードも、なんだかそれに少し似ていた。原発事故への不安はあったものの、震災後の日本はひたすら「前に進むしかない」といった感じだった。非常時の備えや家族との連絡手段の確認の重要性が説かれ、希薄になったと嘆かれている「助け合い」を多く目撃し、人々は心動かされたりした。終わりなき日常が終わったのが、2011年春だった。



 スタジオジブリ最新作『風立ちぬ』の題名は、ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節からとったものだという。そうしようと思えばいくらでもこの作品を様々な角度から観ることは可能であることも重々承知だけれど、わたしはこの作品をどうしたってやっぱり震災と原発事故を絡めずには観ることができなかった。それ以前に着手されているにしても、”暴走するテクノロジー”を絶えずその物語に登場させてきた宮崎駿が3.11を経て放つ新作だもの。
 関東大震災、世界大戦と激動の時代を生きているにもかかわらず、一見主人公の次郎はその過酷さとは無縁のようにみえる。物語のはじめに起こる大震災でも、次郎はほとんどなんの動揺もなく乗っていた汽車をおりたまたま居合せた怪我をした女性をおぶって避難をして応援をよぶと、自身はすぐに学校へとむかう。その姿はあまりに飄々としていすぎていて、歴史に残る震災をたった今体験したひととはとても思えなかったりする。大戦に兵器として利用される飛行機を設計していても、ふつうの気の弱い人間ならまず感じそうな良心の呵責なんてまるでないようにみえる。思うような飛行機をつくることができないということで浮き沈みはあるものの、次郎の心は常に設計図のうえで翼をひろげ、飛行テストをする機体をみつめ、ひたすら時代の上空を飛んでいる。彼には終わるべき日常も、それを終わらせる非日常もない。


 仕事の内容は毎月だいたい同じで、毎日顔を合わせるのも同じひとで、大きな不満もとくになく、辞めてやるという意思すらわいてこない社会人3年目。震災後、定期的に確認していた非常用のリュックサックの携帯用食品は、コンビニにすら行く気力のない日々の空腹しのぎのために枯渇しつつあるし、どこになにが入っているのかさえもう覚えていない。世間の節電モードは猛暑のせいでなりを潜めている。わたしが生きる、ファンタジーじゃない世界では、日常を終わらせた非日常もいつか日常になると決まっている。それでも生き残ったものは、生き続けなければならない。風が吹くかぎり。

やや、あって。

「夏の風物詩、蝉は7年間地中のなかでくらし、太陽のもとにやっとでてこれたかと思ったら7日後には息絶えてしまう、、ああ命とはなんと儚いことよ」みたいなことひとは言うけれど、いやそれが蝉の生体だから、なんなら蜉蝣のほうが儚いんじゃないその名前からしてと思ったりして、でも人間におきかえてみたらそれってどういうことかしらと考えて、地中のなかというのはつまり子宮のなかみたいなことなのかな。子宮のなかにいる時間の365分の1くらいの時間だけ外にでてくらしてその間に子供をつくる。それではどれだけ妊娠期間があるかというとやっぱりその子供が外界で生きる時間の365倍となるので、その子の子どもはさらに365分の一しか外界で生きれなくなって、あれ、これで計算合っているのかしらなにせ数学には弱いものでなんて、とりあえず親より長く生きるのが孝行だよね蝉。子宮にいる時間より何倍もの時間外で生きられてその間道路をつくったり、竹とんぼをつくったり、子供をつくったりつくらなかったり、走ったり跳んだり、歌をうたったりしてとりあえず楽しかったり辛かったり悲しかったりするけれど、両親の卵子精子がうまく結合してくれてよかったねと思う日と思わない日があって、でもわたしは今日も生きていて、仕事をしたり死事する。とにかくもう書くつもりのないbjorkのエントリの消し方がわからないので、わたしは悩んでいます。

SNSでアモーレ

 

2013年6月末日、丸3年間とちょっとやっていたtwitterをやめた。そうしたら、あんなに「時間がたりない時間がたりない」と思っていたのが嘘みたいに、本を読む時間も家事をおこなう時間もできた。おまけに精神と眼精疲労も比較的落ち着くようになった。


 twitterをやめてよかったと思うけれど、3年前twitterを始めてよかったとも思う。あんなに気軽にあかの他人とつながることのできるSNSをわたしは今のところ他に知らないし、現にわたしはtwitterのおかげで沢山の素敵な友人ができたうえ、彼らとtwitterを通して情報の共有や意見交換を行い、多くの刺激を受けたからだ。「RT」や「お気に入り」といったtwitterの「反応のわかりやすさ」もよかった。自分がしたツィートを他人が引用したり拡散してくれることで、自分の呟いたことだけではなく、自分自身さえも褒めてもらえたような気がした。憧れのアーティストのアカウントをフォローしていれば、彼らの「いま、なにしてる?」がわかったし、その気になればいつでも直接TL上で話しかけることも出来た。何日かに一回、もしくは数ヶ月に一回、更新されるブログを読んでいる時より、ずっと彼らが「近しいひと」のような気がした。twitterの、文脈のなさも面白かった。おなじ「いま」を過ごしているのに、あるひとは観ているテレビ番組にたいして悪態をついているし、またあるひとは前の恋人のことが忘れられないと嘆いているし、さらにあるひとはしょうもないギャグを連続で繰り出したりしている。人々の頭の中を次々と覗き見しているような気がした。


 けれどやっぱりいいことだけではなかった。楽しげな会話や興味深いやりとり、有益な情報がみられる一方で、twitterをみていて嫌な気持ちになることも多かった。「おなかすいた」とか「猛烈にトイレに行きたい」とか、正直どうでもいい他人の腹の具合等を絶え間なく、いちいち知らされるのも少し疲れた。子供がよく言う台詞「お母さん、みてみて!」を前後につけたらどれもこれもしっくりするくらい、twitterには他人の自意識で溢れていた。
 でも何故かわたしは少し手が空くとiPhoneを手にとってtwitterのアプリを起動し、続々と投稿されてゆくツィートに目を通すべく画面をスクロールするのだった。それが読むべきものなのか、そして実際にすべてをしっかり読み、処理・理解しているかはともかく、そこにはいつも絶え間なく更新される”読むもの”があった。仕事でいくらパソコンとにらめっこして目がつかれていても、スクロールする度に目眩がしても、わたしは取り憑かれたように画面を親指で上から下へとなでていた。自分がなにかしらのつぶやきを投稿したあとは、ことさら頻繁に携帯を開いた。自分の言うことに対して、ひとがどんなふうに感じ、反応してくれるかが気になってしょうがなかった。自分の自意識もどんどん肥大化していってると感じた。




 twitterをやめてちょうど1週間ほど経つ頃に、ウディ・アレンの『ローマでアモーレ』を観た。長い間、精力的に映画を作り続ける彼の近年の作品は、『それでも恋するバルセロナ』や『ミッドナイトインパリ』、『恋のロンドン狂想曲』等その舞台をヨーロッパに置くことが多い。
 今作のその地は、名の通り古都ローマで、美しい街並のなかで繰り広げられる複数のバタバタ喜劇が平行して語られてゆく。自分の性体験をあけすけに話したり、突飛な言動をする小悪魔サブカル女子に強く惹かれてしまう青年、娘のフィアンセの父親をスターに仕立て上げようとするリタイア後の仕事人間、ごく平凡であるのに何故かある日突然スターのように扱われることになった中年男、成功を夢見て田舎からでてきた地味で真面目な新婚夫婦。
 これらの登場人物のほとんどは、自分の今の境遇に少なからず不満を持っており、「自分はもっと”ちょっとした何者か”であるはず、もしくはそうなれるはず」と信じている。それに対して正当な待遇を受けていないし、それを訴える場所もないと。そんな者たちがある日突然有名人やこれまで出会ったことのないタイプの人物と知り合えたら。いくらでも自分の好きなことを発言でき、さらに他人からそれに対して反応がもらえたら。たちまちに彼らは自分が「何者か」であるような気がしてしまう。そうしてさも一大事であるかのように「今日の朝ごはんは何を食べたか」「パンツはトランクス派かブリーフ派か」等、他人からしたらまったくどうでもいいことを垂れ流し始める。よく知りもしない文学や、建築についてさも知ったかのような口ぶりで語る。そうやって「わたしってこんな人間なんです」を喧伝しはじめる。


 そんなふうに、ウディ・アレン流のSNS批判なんじゃないかと思うくらい、わたしがtwitterをしていて感じた「人間の惨めなほどのちっぽけさ」「それを懸命に振り払おうとする滑稽さ」を『ローマでアモーレ』は描き出していた。「何者でもない者」が圧倒的多数のこの世界にわたしたちは「何者でもないまま」生きていて、時々それに絶望したりするけれど「自分が何者かであると」信じて生きていく方がよっぽど疲れるのだと思った。だからこの映画でも、みんな結局はもとの「何者でもない自分」に帰っていくのだ。そしてほんとうの自分の生活を続けてゆく。iPhoneを手離し、読書をする。皿を洗う。なんなら家庭菜園でも始めてみる。そして思うのだ「何者でもない者としての人生万歳!」

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