かぐや姫はどこから来て、どこへ還るのかー『かぐや姫の物語』と『ゼロ・グラビティ』

 突然ですが、現代の、人類二大未知といえばそれは「死」と「宇宙」なのではないだろうか。子供の頃、布団に入ってから眠るまでに考えた「死んだらどうなるんだろう」と「限りなく続く果てがない、宇宙って一体どういうことなんだろう」という疑問は、当時のわたしを眠らせなくするには十分な議題で、電灯を消した暗い子供部屋で、途方もなく大きな真っ黒の布に取り込まれて取り込まれて、そのまま永遠に独りで泳いでいるかのような気持ちになったものだった。


 昨年11月末、映画『かぐや姫の物語』をレイトショーで観に行った。平日で、しかもサービスデーでもなかった日のためか、わたしは大きなスクリーンを前にした広ーいシネコンの客席の真ん中に、ひとりでぽつんと座って鑑賞することとなった。映画はとても良かった。ぽろぽろぽろぽろ泣いた。でも「なにか温かく大きなものに包まれているのに、どこか不安な気持ちでもある」この感じがなんなのか、はっきりわからなかった。はっきりわからないまま、ぽろぽろ泣いた。その「なんなのかわからないけどすごく不思議な感じ」を年が明けたある日、わたしは違う場面で、また味わうことになった。職場の先輩(男性)のところに赤ちゃんが生まれたというニュースがそのきっかけだった。息子が生まれた日の翌日、その先輩は出勤して朝一に、わたしたち同僚に生まれたばかりの赤ちゃんの姿を収めた写真をみせてくれたのだった。その数日前に、別の先輩から最近の妊婦検診事情を聞いていて、今時はエコーなんていう我が子がミジンコのようにしかみえないものだけじゃなくて、立体的にはっきりと(それこそお腹の中にいるときからパパ似かママ似かなんて話にできるくらいはっきりと)みることができるんだということを知ったのだが、その時「なんだかそれって宇宙船に乗って地球に少しづつ向かってきている異星人と、テレビ電話とかで交信してるみたいだなー」なんて思っていたのだった。そして、その日生まれたばかりの赤ちゃんの写真をみて、これは語弊があるようにとられかねないけれど、やっぱりなんだか新生児って異星人みたいだと思ったのだった。この前までお母さんのお腹の中という絶対に会えないところにいたんだけれど、今はこうして世に存在していて、でもまだ言葉もしゃべらないしなにをみているかもわからないし、小さいし、でも見事に精密に器官が揃っていて、すごくかわいい地球人と異星人の狭間の彼。その子の写真をみて「どんな子になるんだろうね」「どんな声でしゃべってどんなふうに笑う子になるんだろうね」「これから大変だけど楽しみだね」なんて周りのみんなは話して、そのみんなの笑顔といつもよりワントーン高い声は、生まれたばかりの彼に「はじめまして、遠くからよくやってきたね。ここは安全でなんの心配もなくいられる場所ってわけじゃないけれど、わたしたちはあなたを歓迎するよ。これから仲間だよ」って受け入れているかのように思えたのだった。そのことがはっきりわかる前の感覚、この喜びに溢れている、ひたすら喜びと驚きに溢れている、けれど論理で理解できるが感情では捉えきれない「新しい生命の誕生」ということの不可思議さ。それを待ち受ける世界の優しさと厳しさ。『かぐや姫の物語』をみたときに感じた「なんなのかわからないけどすごく不思議な感じ」と、完全に一致したのであった。思えばかぐや姫も「天のひと」で、天、それは宇宙で、かぐや姫が天からきて天へ還るように、ひとは宇宙からやってきたように生まれて、生きて、死んだら星になって宇宙にかえるのだ。宇宙は生前と死後の世界みたいなものなのだ。つまり、宇宙へ行くって生きたまま死後の世界にいくようなものよね!それってとても恐ろしいね。ピッカーン!と



 話は映画『ゼロ・グラビティ』へと続きます。『ゼロ・グラビティ』は予告で観た際、「これって割と速い段階で空気なくなりそうだけど、それってつまり約90分の劇中70分くらい、ずっと息ができない!息ができない!ってやってるのかなぁ。すごく観てるの苦しそうだなぁ」と思っていたのだが、ここで指摘されてるように息ができないこともそうだが、重力がないのも困るよ!ってか宇宙特有の悩みのタネはそれでしょ!という映画だった。実際には。重力がなければ身体はぷかぷか浮いてるし、筋肉必要ないし楽じゃん!みたいな軽いノリでいたら、気づいたときには文字通り銀河の彼方、みたいなことになるのが宇宙。対して重力のある地球では筋肉がなくちゃ進めないし立てない。身体重くて辛い。前述したように宇宙が生前・死後の世界の象徴だとすると、喜びも悲しみも自立も依存もないのが宇宙。「地球の生活もわたしにとっては無みたいなものだから、安らかに宇宙という死後の世界にわたしも取り込まれます。」というこの映画の主人公も、辛いことがあるとすぐに「死にたい」だの「子宮に還りたい」だの言っている世のアマチャン(わたしも含めて)たちは地球で生きているという身体の重さ、だからこそ感じられるワンダーを、だからこそ自分の思う方向に進めることを、この映画のラストで知るのだ。映画『冷たい熱帯魚』のラストシーンで、主人公・社本が「生きてるっていうのはさ、痛いんだよ!」と絶叫するけれど、ここでサンドラ・ブロックが叫ぶとしたら「生きているっていうのはさ、重いんだよ!」ということだろうか。それにしても、死後の世界の象徴だなんて考えたら、例え物理的に可能になったとしても、わたしは宇宙旅行なんて怖くてとても行けそうにない。それが二大未知のうちひとつの解明に近づくにしても、もうひとつの未知に取り込まれてしまいそうで。