夏がすきだ。「暑いから夏は嫌い」なんてひとは言うけれど、わたしは子供の頃から夏がすきだった。


毎年ゴールデンウィークが過ぎ、梅雨も近づいてくるとまれに日差しが強く気温の高い日がでてくる。そうするとわたしは「そろそろだな」と思う。さらに梅雨に入ると(余談だがわたしは梅雨もすきだ)、日本の夏に欠かせない湿気がでてくる。空気が湿り気を帯びると、世界が突然色気をまとう。日本の夏特有の色気だ。そこまできたら季節はもう夏にむかって一直線で、この前まで「さむい、さむい」と縮こまっていたのに、その頃には想像もしなかった熱気と日差しがもう外を支配している。


どうして、こんなに暑いのか。同じところでわたしは生活しているはずなのに、全く違うところに移動してしまったみたいだと思う。あんなにみんな、重ねて着ることに必死だったのに、今では老いも若きも肌を露出している。なにもしていなくても、ただそこに存在するだけで異様なほど汗をかく。こんな汗、他の季節だったらものすごい運動をしなくちゃかかない。それだけでおかしい。数ヶ月前までは死にかけていた植物も、緑でつやつやしてバカみたいに伸びきって道路にはみ出している。生きているって感じがする。さっきまですべてのものを照りつけていた太陽が突然雨雲に隠れて、雷がなったかと思うと降り出す夕立も楽しい。土の、雨水を含んだ匂いが熱気とともにあがってくるのも、葉を雨が打ち付ける音も愛おしい。



夏になると、いつも思い出すのは子供時代のことだ。子供の夏は、宿題に、虫とりに家族旅行に、夏祭りと忙しい。おまけにわたしは夏生まれで、楽しいイベントのひとつに、誕生日も加わっていた。夏休みのおかげで意地悪な友達とあまり顔をあわせなくていいのもよかった。
蝉時雨の下、自転車で学校のプールに通いつづけて日焼けをし、めくれてきた皮を少しづつはがすのも好きだったけれど、そのあと扇風機にあたりながら畳のうえで、自分の湿った汗の匂いのなかで昼寝をするのもすきだった。妹と冷え冷えとした冷凍庫をあけて、好きなフレーバーを選んでアイスを食べた。庭や畑にでて蝉の抜け殻をありったけ集め、洋服につけたりしてひとしきり遊んだあと、一気に踏んで殻がつぶれる「くしゅ」という音を楽しんだ。
普段の季節ではなかなかない、派手な色柄のサンドレス(わたしの母はサマードレスをそう呼んだ)を着られるのも楽しかった。重ね着したりタイツをはいたりしないで、素肌に一枚着るだけでいいのもよかった。サンドレスはどれもすきだったけれど、なかでも母がつくってくれた妹と従姉妹とお揃いの(布地は一緒で形のデザインは3人とも違った)スカイブルー地にひまわり柄のものが特にお気に入りだった。
毎年冬に悩まされていた、痛くて惨めな手の甲のあかぎれとも無縁でいられるのもよかった。その代わり首や膝の裏にできる汗疹に悩まされたが、その予防にと、風呂あがりに母がはたいてくれるベビーパウダーの匂いが、子供心に上品だと思っていた。パフではたいてもらえるのも、なんだかお化粧みたいで好きだった。



夏のあいだ、わたしはほとんど躁状態といっていいと思う。ずっと気持ちが高ぶっていて、ただただ楽しい。毎日のように最高気温が更新されていく夏の始めは「いいね、いいね」と思う。なんたって「最高」なのだ。「最低」よりずっといい。けれどもやがてその記録更新もなくなり、9月にはいって時々涼しい風が吹いたりすると「そろそろ夏も終わってしまう」と思って悲しい気持ちになる。あんなに太陽のほうを向いて元気そうだったひまわりの、具合の悪そうなのも気になってくる。頭を重そうに下げているし、黄色い花弁もほとんど残っていない。茶色い種だけがグロテスクにぼろぼろしている。わたしまで死んだような気持ちになる。
10月にもなると、ほとんど外出する気持ちも起きなくなり、ひとに会いたくなくなる。意味もなく涙がでてくることもある。躁状態のあとの鬱状態だ。でも実はそのあいだNew OrderのLeave Me Aloneとかを聴いて悦に入ったりしているので、実はそんな秋もわたしはすきなのかもしれない。