SNSでアモーレ

 

2013年6月末日、丸3年間とちょっとやっていたtwitterをやめた。そうしたら、あんなに「時間がたりない時間がたりない」と思っていたのが嘘みたいに、本を読む時間も家事をおこなう時間もできた。おまけに精神と眼精疲労も比較的落ち着くようになった。


 twitterをやめてよかったと思うけれど、3年前twitterを始めてよかったとも思う。あんなに気軽にあかの他人とつながることのできるSNSをわたしは今のところ他に知らないし、現にわたしはtwitterのおかげで沢山の素敵な友人ができたうえ、彼らとtwitterを通して情報の共有や意見交換を行い、多くの刺激を受けたからだ。「RT」や「お気に入り」といったtwitterの「反応のわかりやすさ」もよかった。自分がしたツィートを他人が引用したり拡散してくれることで、自分の呟いたことだけではなく、自分自身さえも褒めてもらえたような気がした。憧れのアーティストのアカウントをフォローしていれば、彼らの「いま、なにしてる?」がわかったし、その気になればいつでも直接TL上で話しかけることも出来た。何日かに一回、もしくは数ヶ月に一回、更新されるブログを読んでいる時より、ずっと彼らが「近しいひと」のような気がした。twitterの、文脈のなさも面白かった。おなじ「いま」を過ごしているのに、あるひとは観ているテレビ番組にたいして悪態をついているし、またあるひとは前の恋人のことが忘れられないと嘆いているし、さらにあるひとはしょうもないギャグを連続で繰り出したりしている。人々の頭の中を次々と覗き見しているような気がした。


 けれどやっぱりいいことだけではなかった。楽しげな会話や興味深いやりとり、有益な情報がみられる一方で、twitterをみていて嫌な気持ちになることも多かった。「おなかすいた」とか「猛烈にトイレに行きたい」とか、正直どうでもいい他人の腹の具合等を絶え間なく、いちいち知らされるのも少し疲れた。子供がよく言う台詞「お母さん、みてみて!」を前後につけたらどれもこれもしっくりするくらい、twitterには他人の自意識で溢れていた。
 でも何故かわたしは少し手が空くとiPhoneを手にとってtwitterのアプリを起動し、続々と投稿されてゆくツィートに目を通すべく画面をスクロールするのだった。それが読むべきものなのか、そして実際にすべてをしっかり読み、処理・理解しているかはともかく、そこにはいつも絶え間なく更新される”読むもの”があった。仕事でいくらパソコンとにらめっこして目がつかれていても、スクロールする度に目眩がしても、わたしは取り憑かれたように画面を親指で上から下へとなでていた。自分がなにかしらのつぶやきを投稿したあとは、ことさら頻繁に携帯を開いた。自分の言うことに対して、ひとがどんなふうに感じ、反応してくれるかが気になってしょうがなかった。自分の自意識もどんどん肥大化していってると感じた。




 twitterをやめてちょうど1週間ほど経つ頃に、ウディ・アレンの『ローマでアモーレ』を観た。長い間、精力的に映画を作り続ける彼の近年の作品は、『それでも恋するバルセロナ』や『ミッドナイトインパリ』、『恋のロンドン狂想曲』等その舞台をヨーロッパに置くことが多い。
 今作のその地は、名の通り古都ローマで、美しい街並のなかで繰り広げられる複数のバタバタ喜劇が平行して語られてゆく。自分の性体験をあけすけに話したり、突飛な言動をする小悪魔サブカル女子に強く惹かれてしまう青年、娘のフィアンセの父親をスターに仕立て上げようとするリタイア後の仕事人間、ごく平凡であるのに何故かある日突然スターのように扱われることになった中年男、成功を夢見て田舎からでてきた地味で真面目な新婚夫婦。
 これらの登場人物のほとんどは、自分の今の境遇に少なからず不満を持っており、「自分はもっと”ちょっとした何者か”であるはず、もしくはそうなれるはず」と信じている。それに対して正当な待遇を受けていないし、それを訴える場所もないと。そんな者たちがある日突然有名人やこれまで出会ったことのないタイプの人物と知り合えたら。いくらでも自分の好きなことを発言でき、さらに他人からそれに対して反応がもらえたら。たちまちに彼らは自分が「何者か」であるような気がしてしまう。そうしてさも一大事であるかのように「今日の朝ごはんは何を食べたか」「パンツはトランクス派かブリーフ派か」等、他人からしたらまったくどうでもいいことを垂れ流し始める。よく知りもしない文学や、建築についてさも知ったかのような口ぶりで語る。そうやって「わたしってこんな人間なんです」を喧伝しはじめる。


 そんなふうに、ウディ・アレン流のSNS批判なんじゃないかと思うくらい、わたしがtwitterをしていて感じた「人間の惨めなほどのちっぽけさ」「それを懸命に振り払おうとする滑稽さ」を『ローマでアモーレ』は描き出していた。「何者でもない者」が圧倒的多数のこの世界にわたしたちは「何者でもないまま」生きていて、時々それに絶望したりするけれど「自分が何者かであると」信じて生きていく方がよっぽど疲れるのだと思った。だからこの映画でも、みんな結局はもとの「何者でもない自分」に帰っていくのだ。そしてほんとうの自分の生活を続けてゆく。iPhoneを手離し、読書をする。皿を洗う。なんなら家庭菜園でも始めてみる。そして思うのだ「何者でもない者としての人生万歳!」

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